平和の礎
「成らぬ堪忍、するが堪忍」
この諺でお馴染みの徳川家康について話そう。
実際には家康の言葉では無いとされるが、その生涯や下記の言葉と結びつけられて記憶にある人は多いのでは無いだろうか。
「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。堪忍は無事長久の基
己を責めて人をせむるべからず」
これを人生で実証した偉大な武士である。
家康の功績は徳川幕府250年の礎を作り、日本に平和と繁栄をもたらした事である。
江戸に幕府を開いたことにより江戸の街が栄華を極め目覚ましく発展し、現在の東京引いては日本の基盤となっている。
日本人全員、家康に感謝しなければいけない。
戦国三英傑「信長、秀吉、家康」話はその人物の特徴の違いから多くの人を惹きつけ、研究や考察などが成されており枚挙にいとまが無い。
その「堪忍は無事長久の基」となった最大の出来事は家康の嫡男である信康を粛清しなければ成らなかったことであろう。
もうこの史実の対していろいろな考察がなされているので、カップラーメンにお湯を注ぐぐらい簡単に説明させていただく。
厳密に申し上げると家康の嫡男は二代将軍秀忠では無い。
幼少時代、人質生活が長かった家康は「今川家」の人質になっていた時代あり、今川義元の養女だった「瀬名姫」と婚姻し信康を嫡男としてもうけている。
その後瀬名姫は通称、築山殿と呼ばれる事になる。
築山殿は帰る場所を無くしたと当時に叔父である義元を打たれ事、桶狭間の敗北がきっかけで家康は今川家を裏切る原因になり、そのせいで実父も切腹に追い込まれた。
そんな築山殿の心中は
「織田信長が憎い」
大切な人を奪われた築山殿の憎しみと憎悪は相当なものであったと想像できる。
その後、元服した家康と築山殿の嫡男である信康は
あろう事か最大の仇である織田信長の娘、徳姫と婚姻したのである。
その上「織田信長」「徳川家康」は軍事同盟である「清須同盟」を締結する。
明らからに信康と徳姫の婚姻は政略結婚であったと言えよう。
築山殿自身、最大の仇である信長の娘が可愛い息子の嫁なんてそれは、それは憎たらしくしょうがない。
嫁姑以上の問題であり信康と徳姫の居城である岡崎城はその憎しみから常軌を逸した姑にひっ掻き回され大変な事になっていたのは容易に想像できる。
そして
「築山殿、信康」と「徳姫」の溝が決定的となる出来事が起こる。
信康と徳姫の間にはなかなか子供が出来ず、それにしびれを切らした築山殿は城にいる女中を手当たり次第に信康に側室として与えていった。
正室の徳姫は当然面白く無い
徳姫
「こいつら頭おかしいし、めちゃイジメられるからむかつくは」
「ある事、無い事パパに言いつけちゃえ」
こんなノリであったと想像できる。
そんなこんなで徳姫は父信長に対し「12カ条の訴状」送る。
その中に
築山殿と信康が甲斐の武田信玄と内通し織田信長に対し謀反を起こそうとしているという内容が含まれていた。
それを見た信長をすぐさま家康に
信長
「お前のカミさんと息子が俺に謀反企んでるらしいじゃん」
「今すぐ二人とも殺せ」
これを聞いた家康は信長に逆らう事は得策でないと判断。
泣く泣く我が子、信康を切腹させ築山殿を斬首したというのがこの事件の結末である。
駆け足で要所、要所飛ばしながらのお送りさせたいただいたが家康にとって
大義である「天下統一」という遠大なビジョンの為に我を子を犠牲にせざる負えなかったその冷徹な判断力と忍耐力は凄まじい物である。
仮に妻子を守る為、武田信玄と内通し信長を挟撃する事も可能であったはず、そうしなかった家康の戦略と胸中を知る事は出来ない。
しかし、どんな犠牲を払ってでも大義を果たすという凄まじい忍耐力を持った徳川家康が偉大な武士であったという事を後世に伝えるエピソードにしては十分すぎる内容である。
最後に徳川の徳という字の成り立ちをご紹介して締めさて頂く。
諸説あるが「直」と「心」という字が長い年月かけて融合し「徳」になったとされる。
すなわち意味は素直な心と言う意味になる。
「徳 = 誠の心」
そう私は解釈している。
本日は以上、