過去の自分と対話する
昨日で勤務先の最後のシフトを終えた。
ハードに働いていたので、かなり疲労が溜まっている。
帰国まで2週間ちょっと
体をゆっくり休め、帰国後の計画や、自己改革の時間に当てようと思う。
勤めに出ると自分と向き合う時間が奪われてしまうのが一番きつい。
自分との対話をしづらくすることで労働者を縛り付け、その上精神力を奪えば人はどこへもいけなくなる。
会社と言う飼い主に首輪をつけたれた犬のように。
毎日、飼い主がエサを与えてくれる
それは毎月の給料の相当し
有給休暇でどこかへ行く
それは飼い主との散歩に相当する
リードが届く範囲なら自由が手に入るが
それ以上先の世界を自由に見ることはできない。
それはそれで合理的な生き方だと思う。
合理的でないのは嫌いな性格だが、その価値観は人それぞれ違う。
価値観の相違は、悲劇の母であり
勤務先のオーナーとは日に日に価値観の乖離が生まれ、働くことがストレスになっていた。
会社自体たくさんの問題を抱えいた。
だから
全従業員を代弁しオーナーの不貞行為や無意味な経営方針について糾弾した。
念の為、会話をボイスレコーダーで録音しておいた。
そしてそれを振り返り自分の成長を感じられずにはいられなかった。
正論を論理的にかつ、伏線を張りつつ最後に回収する手法を取った。
一対一で話している時には気づかなかった私のトークで相手を圧倒していた。
正論を突かれ、反論と言うよりかは話の軸をすり替えたり、自分の責任でない、知らぬ、存ぜぬで逃げる姿が録音ながら映し出されていた。
相手を論破したからどうという話ではない。
自分の心にある、本当の気持ちを相手に知って欲しかっただけである。
それが昔の自分にはできなかった。
そもそも言い出せなかったり、感情的になってしまったり、言葉でうまく表現できなかったり、言わぬが美徳みたいな感覚を持っていたりもした。
しかし、それが出来たのだ。
私の隣にはいつも子供の頃の自分がいる。
泣き虫だった自分、母親に甘えん坊だった自分、恥ずかしがりだった自分
そんなありふれた引っ込み思案な大人しい子供でも
上げたらキリがないくらい大人になって出来ることが増えた。
「そんな事はもう大人なんだから出来て当たり前」と思うかもしれないが
子供の時の自分では考えられらないぐらいの進歩なのである。
それを理解してほしい。
生きてきた1万日弱の日常の中で経験値を積み重ね今の自分となっている。
「すげーな、こんな事も出来るようになったんだ」
「すげーだろ、いつか出来るようになるから大丈夫」
子供の頃の自分と対話してほしい。
そうすると自然と自信が湧き上がってくる。
ブログを書くのも過去の自分と対話したいから。
過去の自分はもうすでに他人であり今の自分ではない、
過去の自分と言う他人と対話する事で新しい発見や大切な気付きが生まれるから。
本日は以上、